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カテゴリ:シンク
  • 鈴木大拙館
    [ 2012-05-14 22:33 ]
  • 忘れるということのメモ
    [ 2010-06-02 00:06 ]
  • 有機半導体とトーキ
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    [ 2008-03-14 01:03 ]
  • 「情報化と身体の変容」
    [ 2008-01-24 07:59 ]
鈴木大拙館
 石川県は金沢市の鈴木大拙館を訪れた。21世紀美術館から少し離れた極めて静かな住宅街に、潜むように建てられている。

 鈴木大拙は、「禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者」である。鈴木大拙館はその名の通り、彼に関する文化施設であり、昨年建てられたらしい。

 入館して最初に感じるのは、何も無いということ。何かを明確に伝えてくる施設を期待して入ると、拍子抜けしてしまう。博物館と呼ぶには展示物が少なすぎるし、建築としては空間が多すぎる。

 私は禅に関して全く知らない。人生において禅を組んだことなど全く無い。龍安寺の枯山水も観た事がない。鈴木大拙に対してもせいぜい「禅に関する何か偉い人」くらいの認識である。そんな私なので、以下の文章は禅的見地からコメントしたものではない。

 以下、館のありようを各側面で説明をするが、いずれ館を体験する読者の感覚を先取りすることには決してならないことを強調しておく。

1. 空間的側面
 動かないものに関する側面。
 館の大部分は「庭」になっており、徹底して「直線」で構成されている。庭のほとんどは水深が一定にされた池になっていて、水鏡のように実体の世界を映し出している。

 池のもう一方の壁面は、石のブロックを積み上げたものである。石は少しずつ大きさが異なっていて、ブロックの境界線が漸次的に揺らいでいる。

 庭の周りは、客が周遊できるようになっている回廊となっており、視点によって変化する庭の見えを強調するつくりになっている。

 上記観点は、本来建築物にとって当たり前のことだろう、と思われるかもしれない。この建築において重要なのはその感じ取れる変化の「純化」である。たとえ当たり前の設備であったとしても、どうしても無視できない形で自分の認知に入り込んでくるのである。

2. 時間的側面
 動くものに関する側面。
 時折池の中心からゴポッと波が立ち、波紋が池全体に広がっていく。池に映り込んだ空と影のコントラストが波紋の速度で波打つ様を眺めることができる。水鏡の波紋は広がり、浮く枯葉の群れが一体となってうごめく。

 徹底した直線による建造物と、巨大な水鏡の池を眺めていると、風が吹き抜け、施設外の木々がどよめく。他の観光客がゆっくりと歩いて行くのが直線の構造の対比となってやたら目につく。

 飾り気が一切ない、退屈な景色の中で次々と物事が起こっていることを知る。何かの動きを見つめていても次々と別の何かが起こる。

 上記の様な変化は、文章にしてみると何が面白いのかわからない。
 ただしこの庭は、そういった変化を純化して身体に注ぎ込んでくる巧妙な装置なのである。いずれ自分の視線は焦点を結ばなくなる。音と視界の変化だけが身体を通り過ぎていく。むしろ逆で、自分が何かが通り過ぎて行くだけの身体になっていく。自ら停止することで変化が如実に伝わってくる。そして同時に変化は自らを停止させる。

3. 私見;速度について
 館は、直線が曲がって行くことと停止したものが常に動いていることを直接訴えてくる。日頃、自然の微細な変化を無視している我々にマイクロスコープとスピードカメラを与える。意味から捉えると、単に自然がそのままの速度で振る舞っているだけである。
 速度。
 そういえば、人間は自然の速度を本来制御できない。
 光速、量子の振る舞い、化学反応、力学的運動、生理反応、病、都市の発展、流行、時代のうつろい。ストップウォッチで計測すれば、物理法則に裏付けられたそれぞれの速度で動いているものばかりである。人間は、それら自然の本来の速度を構造化することによって制御したつもりになっているだけなのである。自然構造本来が生み出す速度自体は、変えられた試しがないのだ。


 ただ館に佇むだけでこういうことまで考えてしまった。一見退屈なことこの上ない施設だが、そのような館なのである。上記述べたことは単なる情報であり、真意を伝えるには身体をそこに置いてもらうしかない。

近しい人には一度訪れてもらいたい。

鈴木大拙館


by eikonal | 2012-05-14 22:33 | シンク
忘れるということのメモ
つらいことがあればとにかく「忘れてしまいなさい」
なにかを習えば「それを忘れたころに体得する」

なんていう言葉がある。

「忘れる」という行為は随意的に出来ない。

上記の助言を受けて「忘れよう、忘れよう」としても、
なかなかデータを消すようにはいかない。
むしろ忘れたいその「こと」が、
返ってしがみついてくるのがオチだ。

「忘れたこと」とは何か?
「思い出すことしかできないもの」だ。
「思い出す」という行為は意識的に出来る。
「どうしても思い出せない」くらいほころんでしまっていることもあるが。

「忘れたこと」が「思い出す対象」に変わって初めて、
(忘れたり、思い出したりする)「主体」は、「時間を進んだ」ことになる。

ここでいう時間は、
時計の針やカレンダーが指し示すものではない。
主観的時間のこと。

3年経っても忘れられないでいるのなら、
主体は時間を進んでいないことになる。

失恋したら忘れなさい、
会得したければ忘れるまでやりなさい、

これらすべては「その時間を早々に通り過ぎ、未来へ行きなさい」という意味だったのか。
しがみついてくる、自分を今に閉じ込める「それ」をやり過ごして、
「思い出す対象」にしなさいってことか。

「思い出す対象」はすべて死んだもの。
忘れることで死体の山ができる。
実はそこまでしてやっと自分は前に進める。
意思とかガッツは関係ない。

忘れて初めて行けるステージ。
「忘れてはいけない」「忘れたくない」という思いは
しばしば時間の流れを止めたりもする。

常に死ぬことで常に発生する・・。

要は、気休めが一番!!
by eikonal | 2010-06-02 00:06 | シンク
有機半導体とトーキ
長文です。虚無です。

今日は「フニャフニャ曲がる」有機半導体デバイスや
電気を通すグニャグニャゴムの講演を聴いてきた。

現在、世界中のコンピュータに入っているのは
圧倒的にシリコンなのですが、(シリコンバレーっちゅうくらいですから)
炭素、水素、窒素、酸素の有機物から作ると、
簡単に作れてフニャフニャできる。
要はICチップをペラッペラのシートにしちゃう技術。

コンピュータの機能を、壁や床にぺら~っと付与できるので、
真の意味でのユビキタス社会を支えるのではと期待されています。

有機半導体デバイスの研究はだいぶ進んでいて、
性能的には従来のシリコンにもう追いついてるらしい。

乱暴な言い方すると、あとは投資するだけで、
世界をひっくり返す可能性があるってことですな。
采配は投資家の勇気(有機だけに)に委ねられたか。

オラちょっとワクワクしてきたぞ、と思っていると質疑応答のお時間。
ウチのお偉いさんがシリコンを引き合いに出してネチネチ質問を始めた。
要は「ホントにこれで儲かるのかね」という、お偉いらしい現実的(消極的)質問。

ぶっちゃけると有機半導体デバイスは、ローテクなのである。
シリコンに比べてびっくりするぐらい簡単にできちゃうのである。
事業化のためにはその「びっくり」を乗り越える勇気が必要なのである。

しっかし、社内の技術評価会じゃねんだから・・団塊uzeeeeeeと思ってしまった。
「おもしれえ!どうやってやろうか」の一言くらい言えっての。
お偉いの意思が事業化にどれほどのパワーを与えるか・・。

このお偉い、
「従来の半導体デバイスがペラッペラになること、
そしてそれで変わる世の中の可能性」
という意味を完全に見落としているのである。

経験に裏打ちされた「事業採算性」の精巧な物差しを持っているために、
逆に重要な意味をまったく読み取れないのだ。
胸糞悪いぜ、と思ったが大企業メーカではよくある話。


但し、である。


「物差しを持ち込んだがゆえに返って物事の意味がわからなくなる」


僕だってやらかしていたのである。
ビリンバウのトーキ。(リズムパターン)
稽古を続けていても「心を打たない。記号のようだ」と叱咤されるのは
このせいなのではなかろうか。

幼少時の経験のせいか
何を習っても脳内で楽譜に変換される癖がある。
だからパターン「だけは」即座に覚えるし、
リズムの成り立ちの「理解」だけは圧倒的に早い。

ただしそれは、記号の物差しを差し込んだだけなのである。

今日僕が団塊uzeeeと思ったのと同じように、
ノリ、グルーブ、雰囲気、全ての統合体であるはずのトーキに
不躾に記号の物差しを差し込んでいたら、
「物差しで計れないもの」たちはサイショuzeeeeと思うだろう。


「できます」と「わかりました」は違う、という話にも似ている。

同時に
形(記号)と本質が本来相補的であることも信じている。
結果が出なければ、
記号的にカリカリやろうがノリでズバ~っとやろうが関係ない、
とも思っている。

どうも僕は技術に関しては「ノリ」、音楽に関しては「記号」で感受する癖があるっぽい。

そのようなことを感じた日でした。

記号の牢獄からは早いとこ脱したいなぁ。
さーちゃんどうしようー。ってのは嘘で、感張ります。
by eikonal | 2009-03-03 22:10 | シンク
バントゥー族の道徳
はい、哀れなエントリ書いた後で!いつもの!
むずかしい話いくよ~!


バントゥー族はアフリカ大陸中央にいて、
カポエィラの起源となる格闘技、ダンスをやっていたと言われる。

アフリカの彫刻を探してパラパラと読んでいた本に、
バントゥーの価値観が描かれていた。

フィールドワーク集「ブラック・アフリカ美術」(1983年)
内田 園生 / 美術出版社



引用させていただく。

バントゥー族の価値観の中心をなすものは、「生命力」とか「活力」とか「強く生きる」とかいった概念に近い動的なものであって、彼らの信仰、存在論的認識、倫理、美感は、すべてこの概念の基礎の上に、渾然一体となっている。


別にヨイショするわけでもないが、
資本主義経済に生きているとまずない発想である。
彼らの「神」は「生命力を与えるもの」唯一だという。
また注目に値するのは、

彼らの思考においては、「存在」の概念は、常に活力ないし生命力と表裏一体をなしており、活力ないし生命力と分離した形での「存在」というものはありえない。


・・・この地域のバントゥー哲学では、霊ないし魂との肉体の対立を認める二元論的な考え方はなく、「生命力」だけが存在しており、肉体にはその生命力の表現としての意味しかない・・・



生きていなければ「無い」のと同じ。
欧米は精神と肉体に分けて考えたりしはじめたし、
科学の歴史は分析に走り、「生きているか/いないか」という問題を無視し続けてきた。
(荒川修作さんも怒っているとこですね。)

大きなものから個個に生命力は受け継がれる、という思想から、
自分の生命の源である先祖を信仰したり(東洋のそれとは少し異なる)
生命力を受けんとする祈りのために踊ったり、
成人式でトランスして先祖の生命力(霊)を呼んだり、
といった彼らの風習が生まれているわけ。

さらに展開する。

「生命力」という思想の礎から、彼らの「善悪」も構築されているという。
即ちバントゥーの罪は「他の生命力をおびやかすこと」、
そして善は「他の生命力を助けること」になっている。

著者は以下のような例を出している。

私の飼い犬が彼の羊を一匹殺してしまった。
羊は彼が生きていくうえで必要なものである。
このとき私は羊を一匹で弁償するのではなく、
彼の生命力を脅かした慰謝として、三匹も四匹も羊を返すことになる。


現代日本にも慰謝料というものがあるが、生命力起点ではないよね?
精神的苦痛、健康の毀損に対するものだろう。

とまあこのように、非常に興味深く、潔くて惚れ惚れする道徳観だと思います。
同時に、そりゃ貨幣価値を原則にした経済的成長は見込めないわ・・とも思います。

バントゥーの思想は「なぜころ問題」を簡単に解いてしまいます。
いやむしろ「解く必要が無い、問題自体が無い」というスタンスか。
「何故ひとを殺してはいけないのか?」という中二病的問題。
僕らは「遺族が悲しむ」というような
「急に問題の範囲を狭めた人道的回答」くらいしか答えられない。

バントゥーに敢えて問えば、
「生命力」が第一原理、存在論なわけだから、
それを人の手で抹消するなんて、
善悪以前にあってはならないことなんでしょうな。
上手く言えんが。

翻って、
バントゥー以外の民族は
冷め切って生命力を完全無視している
というわけでもないようですね。
いかに合理化が進もうとも、
「姿のある神様」を設定したりして、
人道、人権、という言葉も考えたりで、
道徳が消えることはないわけで。

バントゥーの思想は、
コア部分が非合理(生命力)で
非・意思的(神がこういう意図で創った、とも言わない)。
そこが非常にユニーク。

バントゥーの思想を
教訓に落とし込むか関心程度にしておくかは
各人にゆだねられた話です。
日本に生まれ生きているならまずしっかり日本の社会人やればいいし、
いいや違うと思うなら全力で抗えばいい。「愛してるけど勝手にして。」

とまあ、バントゥーの面白い一面を日本語で書いている本がありましたとさ。
とっぴんぱらりのぷぅ
by eikonal | 2009-03-01 01:31 | シンク
逆に言うとの人
ほんのり微熱で時間を過ごす。

「逆に言うと」が口癖の人は
理屈屋である可能性がきわめて高い。

結構真であると思う。
理屈屋とは、そこ逆に言わなくてもいいのに!
というときに「逆に言う」人のことである。
悲しいかな僕も30年ちかくその類である。

理屈屋はなぜ逆に言おうとするか。
常に「反証」したいのである。

反証とは
「ビールのアテには枝豆だよね」という命題があったとして、
「ああ、枝豆じゃなきゃビールは飲めねえ」という説も強く信じる行為である。
もっと簡単にいうと「消去法」である。
選んだそれ以外を死滅させる根拠を探す行為である。

しかし別に塩辛でもいいのである。
飲み会を楽しく過ごす方法はそこにはないのである。

本人の中では「AならばB」、「BならばA」
両方に充分なモチベーションが加わり
ビールと枝豆の間に必要十分な関係がもたらされた感触があるため、
これは極めて必然的で強力な選択だ、と個人的に満足することもできる。

必要十分とかいうと
いつぞやの算数の授業のようだと思う方もいるかもしれないが、ご明察。
反証によって命題の真を証明しようとしている時点で
それは論理学に片足つっこんだ考えなのである。

理屈屋は目の前の問題に対して過剰にロジックな人である。
「AならばB」だけなら単なる言及に過ぎないんだけど、
1.「AでなければBでない」
2.「BでなければAでない」
3.「BならばA」(←「逆に言うと」はこれね)
までも確かなものにすれば、
対象としているA→B問題「ビールのアテには何が良いか」は
完全に論理的に解が出る問題となる。
理屈屋は世の中をできるだけそう捉えたいのである。
というかそれ以外の捉え方をあまり知らないのである。

A(ビールを飲む)という状況からB(枝豆)を選択する。
この何とはない選択に上記1.2.3.にも十分な動機付けをしないと
Bが選択できないのが理屈屋である。
もっと言うと、
ロジックが有効なフィールドに落としてからじゃないと決断しかねる、
だからまず命題を反証して見せようとする。
だから問う。「逆に言うとこういうことだよね・・?」
理屈屋が優柔不断なのはそのためである。不安なのである。
ロジカルシンキング=臆病者の思想と言っちゃってもいいのである。
ロジカルに勇気は出ないのである。

ロジックは便利なものであっても
ロジックのフィールドに入りきれないものが必ずある。
「ロジックが成立する」のではなく、
ロジックが成立する要素が選ばれて集まっているだけなのである。
従って理屈屋はロジックのフィールドに入りきれないものを見逃す。
世の中、ロジックで片付かない方が普通なのである。

但しどうしようもなく人間の脳ってヤツはロジックを抽出する。
「理屈じゃないよね」一点張りの人だってそうである。
単に満ち足りているだけである。

命題「宇多田ヒカルが好き」→反証「宇多田ヒカルじゃないと嫌い」
命題「彼はデキルね」→反証「彼以外は無能」
そういうわけじゃないっしょ、と(引き気味に)誰もが思うはず。
しかしポジティブな命題を強くするためにネガティブな反証を試みてしまう。
理屈屋がネガティブな子になってしまうカラクリもそこにある。

この記事だって
「逆に言うと」を連発しない人は理屈屋じゃないのか?
と言われると「んー、そうでもない」のである。

本来身も蓋もない話なのである。
多分タミフルのせいである。
by eikonal | 2009-02-01 19:26 | シンク
こいばなについて
好きなタイプは、とはよく聞かれる質問である。
いつも、どう応えていいか困る。
(だから聞かないで、というコトではないが・・)
言えば言うほどウソになるなぁ、と今回とても強く感じた。

好きになる、ってのは自分相手タイミングすべて巻き込んで
すっと新しいバランス(しかも居心地のよい)に移行する動きだとして。

「バランスのとれたヒトがいいなぁ」とか
「ウタダヒカルと結婚したいなぁ」とか軽口はたたくわけだが、
(それも自粛すべきかなぁと思っている)
「じゃあバランスがとれていないヒトはNGなのか」
「ウタダヒカルと違かったらNGなのか」という
いわゆる「逆説の否定」を迫られ、
「いやそういうことでもないんだけどなぁ」となる。

「好きなタイプ」、ってまさに「ある集合の性質を語る」行為にほぼ等しい気がするが、
かといって数学の集合論みたいのは成り立たないのですな。


問答において言葉にした時点で、
脳や身体もろもろ巻き込んでもやもやしている部分を
因果関係や論理みたいな枠で組み立てたのち口から出荷しているわけで。


そうなると押し黙っている中にある
複雑な「好きになる可能性の海」とは既に違うものになっている。
かといって言葉は自ら「理屈の構築」を始めるもんだから、
言えば言うだけ誤解されていく。

かといって、語らなければ時間も進まない。
今日はイエス、明日はノー。

もっと全身を使わなくてはなぁ。と思う。
しかるべきときに、満身創痍、全身運動を以ってコクるために。
by eikonal | 2008-07-22 10:41 | シンク
「微小な理こそ時間と空間」仮説
だいたいの物事が
「無数の、あるいは円環的な因果」から成り立っているという
仮説をここ2回のエントリで書いてみた。

じゃあ「理」なんてないのか?まぼろしなのか?

とまでは言わない。
少なくとも有限で微小な領域においては、
「理」があらわになっているからだ。
無数の因果の海から「理」を取り出す作業は誰もが行っている。
よく引き合いに出すが、
たとえば「今回のトラブルの元はあいつだ」って考えることとか。
言うなれば過去の編集作業だ。

また、有限の空間・時間内であれば未来に関しても「理」は有効だ。
物理現象も我々の目の前では理を伴って現れる。
目の前で手を放されたリンゴはほぼ確実に落ちる。
明日は平日。「僕は明日会社へ行くだろう」し、実際明日僕は会社へ行く。

有限の時間・空間内であれば誰もが過去と未来を編集することができる。
しかし遠い過去・未来、全地球規模、
なんてことになると個人の脳では編集・予測するには手に余る。てか不可能。
微小な理屈が集まって
メタで巨大な「予測不能なもの・正体不明なもの」になっているという
世界の構図は誰でも想像が容易だと思うが、
そのモデルには「決定論的カオス」という名前が既についている。



・・と風呂に入るまで考えていたのだが、
いやまてよ、
「有限な時空間内で理を立ち上げることができる」のとは逆で、
「微小な理がそこに在ることができるからこそ我々は主観的時空間に居ることができる」
のではないかと思えてきた。

時空間という人間不在のフレームを用意して、
そこに「理」を持ち込むというモデルではないかもしれない。

無数の小さい「理」が微小な領域で同時発生している状態こそが、
あたかも時空間を形成しているように見える。


のではないかという仮説が浮かんだよ?

ひとつの神殺し仮説です。時空間フレームというメタな存在を消し去るものです。
いわゆる「神」がいるとしたらは上から見てるものや偏在しているものではなく
今そこに発生しているものなのかもしれない。

眠い。寝る。

by eikonal | 2008-03-28 01:55 | シンク
円環的因果ンガ
面白いモデルを見つけた。

1.

住民たち「僕らの最寄にも急行止まるようにしてくれよー」
電鉄会社「君らの最寄駅の利用者人数調べたけど全然いないじゃん、だから急行は止めないよ」


2.

社員「平日でも役所とか行けるように昼休み長くしてくれよー」
会社「昼休み時間に役所行くやつなんていないじゃん、だから昼休みはそのまま!」


「現状維持」「停止」に持ってかれている、
あるいは行き詰っている、閉塞している。のにお気づきだろうか。

急行を止めないから利用者が少ない。
利用者が少ないから急行を止めない。

昼休みが短いから役所に行けない。
役所に行かないから昼休みが短い。

円環的因果関係による
「閉じたループ」「停止へ向かうループ」である。
悪いのはどっちか。どっちでもあるしどっちでもない。
これは別に稀有なケースではないと考える。

===============================

ワークスタイル研究の最先端でも、
問題解決のモデルとして円環的因果関係モデルを用いたものが提案されつつある。

従来は直線的因果関係(AならばB)で問題を捉えていたのに対し、
A、Bを経由して形成されるループとして捉えるやりかただ。


直線的因果関係は、A→Bの流れが絶対で、
BによりAが変化することはないという前提がある。
Aによる結果が複数あれば、モデルはAを幹とした樹形図になる。
問題解決を考えた場合、
可哀想なことにこのモデルを想定した時点で既にAは悪の親玉なのである。

円環的因果関係は、A,Bを経由する環状線みたいな流れを想定する。
AはBに影響するが、同時にBによりAも変化する。
AやBの因子をかき集めて環状線を引きまくると、モデルは多数の円環群となる。
各因子には多数の環状線が流入し、そして多数の環状線が湧出する。
以前のエントリで「要因は無数にある」と書いたが、
それは円環的因果関係の想定と無関係ではない。

直線か、円環か。
これは複雑な事実をどう捉えるかの違いであり、
導き出される解決策もまったく異なってくる。

どちらが現実に近いか?
円環であろう。と思う。
脳のニューロンシステムもまさに円環的因果関係で動いている。
シマウマは何故シマ模様か?黒馬や白馬にならないのか。
というカラクリにも化学反応の円環的因果関係が潜んでいる。(反応拡散波)
何故あの人はあそこまでひどいことを言うに至ったのか。
何故あの人はあれほどの結果が出せたのか。

僕らはそこから直線的因果関係を勝手に抽出して、
(あるいは大きな円環的因果関係に流されるままに)
怒ったり、泣いたり、賞賛したり、
解決に乗り出したり、別れたり、出会ったり、
他にすることもあろうにアメリカの批判ばかりしたり、
猟奇殺人増加の原因はテレビだと声高に主張したり、
・・・している。
要は過去の自分を要因にして、自分のなかで円環をつくり、走っている。
思い込みが未来の自分の思考を後押しし、更にそう思うようになるのと同じである。

なので人間1個体を「主要因」に設定しても
それには誰かの意思やエゴや嗜好が入り込んでいると思いたくなってしまう。

何かを責めるより悪しき円環を断ち切るか、
円環の絡み合いを変えた方が良い。
放っておいても心にストーリーは刻まれ続けるだろうし、
勝手に感情は動き、名づけ難い涙が出たりする。

===============================

最近の本ブログの看板「それを考杉と呼べば僕が考え過ぎてゆく。」
これも似たような思想を込めている。

というわけで、
ゲーデル・エッシャー・バッハを未だ読まないまま
考杉も今月で3周年です。今後ともよろしく・・・

「Krispy-Kremeの行列は何故無限に増えないか。」
by eikonal | 2008-03-18 21:36 | シンク
因果ンガ
"(i)nganga"

物事が「良くなる」「悪くなる」というのは、
だいたい「無数の要因」によるものだと思う。
機械構造や物理モデルでない限り、
単一の因果関係で話が済むことはまずない。
(そんなことない、と思う人は本当に幸せだ。誇っていい。)

我々が「これのおかげだ」「こいつが悪い」と思っているのは、
「これ」「こいつ」による強い寄与を信じていて(信じたくて)
因果関係を自ら作り出しているに過ぎない。
原因を原因たらしめているのは我々自身ということだ。
本当は無数にある原因から
悪役やヒーローを選び出す行為、
あるいは「因果関係を捏造する行為」を
無意識に行っている。

脳の「記憶」のメカニズムが本来そうなっているらしいんだが。



「明らかな悪意」がどこにもなかったとしても、
ある弾みで揉め事は起こる。
あんなに愛し合っていたはずの恋人はある弾みで別れる。
完璧に管理されたシステムのはずが問題が起こる。

でも我々は「あれが悪かったからだ」と思いたがる。
「悪かったあれ」を想定したがる。
要するに、因果関係の前に「悪役を設定して責めたい」という
わりと原始的な意識がある。と思う。

逆にある弾みで揉め事が収まる。恋人が出来る。
各セクションのゆるい管理体制の中に突如として秩序が生まれ、動き出す。
そういうことだってある。

各個人は超え難い心の壁の中に居り、
ただ自分の意思で振舞うある意味単純なモデルなのにも関わらず、
そこから生まれる事象は必ず非線形だ。
要は1,2,ときても次に3が来ないってことだ。

詮索や分析をすれば
悪役やヒーローを仕立て上げる要素はいくらでも見つかるだろうし、
同時にだれも悪役にできなくなる。
さらに同時に「次に来る時間をちょっとだけ良くするヒント」も無数に見つかる。
by eikonal | 2008-03-14 01:03 | シンク
「情報化と身体の変容」
昨日のカポエィラのレッスンで「スローモーション」というトピックが挙がった。
「スローで○○をやったらどうなるか?」から派生する動きを自ら観察するというもの。

と思っていたら江戸川大学のサイトにこれにリンクする文章を発見
「情報化と身体の変容」

(4)イメージを産出する身体?
に出てくる「砂浜のレッスン」の話。直接ではないけど何かつながる気がした。

感じ入る、ということは次の知を呼び込むものだなぁ。
by eikonal | 2008-01-24 07:59 | シンク
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